ラストチークはあなたと:3月21日(水) 16時3分



 あいすは思わぬ誤算に小さく舌打ちした。まったくあの馬鹿王子は自分の邪魔ばかりしてくれる。
周囲は見渡す限り炎に包まれている。あれだけの雪崩を溶かして、なおかつ樹海を火の海にするなんて、腐っても間界の王子というところか。雪から自分を守る為とはいえ、いささか行き過ぎた自己防衛本能だけれども。
 生命の危機に瀕しているというのに、のんきに益体も無いことを考えている自分の冷静さに、あいすの小ぶりの唇が小さく笑みの形を作った。最も弱点とする炎に四方八方を囲まれた絶望的な状況に、諦め悪く足掻くのはらしくなくて嫌だった。溶かされていないありったけの雪と氷で自らを守っていたが、炎の勢いは凄まじく力尽きるのはもう時間の問題だった。
 実界人は悠達がちゃんと安全なところに避難させただろう。矢射子は武装セイバーで雪を体中にくっつけ、真っ青な顔をして、しかし無事に火の中をくぐっていった。勿論宏海をつれてだ。

宏海…どうしようもないお人好しだ。また悠に遊ばれていたのだろう、先ほどの状況を思い出す。理性では理解していたのに、一瞬息が止まった。硬派で、異性よりも伊舞をなにより大切にしている宏海が、こんなところで乳繰り合っている筈はないのに、何故か裏切られたような気がした。
なんだか自分らしくない何かに気付いてしまいそうで、あいすはこの考えを意識の外に追いやった。とりあえずは、実界人の安全は確保されたのだ。しばらくすれば回復した太臓か矢射子か…誰かがこの火も消し止めるだろう。最低限の間界領事としての責任は果たせた。思い残すことはない。ただ1つを除いては。

「佐渡!!」
「!!馬鹿!なんで来たの!」
ウェアを頭からかぶった宏海が、炎をかき分け飛びこんできた。
「馬鹿っておまえ…。助けに…」
宏海が言葉を詰まらせる。当然だろう。あいすは燃え盛る倒木を避けるうちに力を使い果たし、手足の先が既に雪に還ってしまっていた。
「おまえ…手が…!」
「見ての通り、私はもう歩けないわ。私のことはいいから早く逃げなさい。」
淡々と告げるあいすに、この時ばかりは宏海も激昂する。
「馬鹿野郎!尚更置いて行けるか!早く捉まれ。翠達が道を確保してるはずだ」
申し訳程度に残った雪ごとスキーウェアであいすを包み込み、軽々と抱き起こし、これ以上体が崩れないようにゆっくり進む。

「くっつくのが嫌でも今は我慢しろよ。後でなら変態だろうがなんだろうが」
歩きかけた途端、真っ赤に燃えた樹木が倒れてきて轟音とともに唯一の退路を塞いだ。炎の思った以上の勢いに、宏海もさすがに顔色を無くす。
「だから言ったでしょう?私を置いて今すぐ逃げなさい。太臓係とはいえ実界人を犠牲にするわけにはいかないわ。私の経歴に傷をつける気?」
とけた腕で力なく宏海を押しながら、口だけは勢いを失わない。いつも通りの憎まれ口に、パニックを起こしかけていた宏海はわずかに冷静さを取り戻した。
「おまえは犠牲になってもいいって言うのかよ」
「雪人は雪に還るだけよ。時間がたてばまた間界に雪人として産まれるわ」
「…おまえのままでか」
「…いいえ」
あいすは中途半端に宏海の胸を押したまま答える。拒んでいるのか、縋っているのかわからなくなるような弱々しさに、宏海の腕に力がこもる。
「…バアさんを置いていくのか」
唯一の心残りを指摘されて、あいすは唇を噛み締めた。あいすがケサをなにより大切に思っていることを、宏海はよく知っていた。動揺を隠しようもなく、声がかすかに震えた。
「……悠に、記憶を操作するよう伝えてくれるかしら…」
「…自分で頼むんだな」
聞いたことも無いような弱々しい声に内心驚いたが、萎えかけた気力を奮い立たせるには充分だった。それ以上聞かず、宏海はきつくあいすの体を抱えなおした。元より置いていく気は微塵も無い。その気持ちが何に起因されているか、宏海はまだ気付けない。ただ腕に感じるあいすの軽さに、胸が締め付けられるような気がした。

どんなに拒否したところで、見捨てて行けるはずが無いことはわかっていた。あいすは抱き締める腕がすこし苦しくて、胸が苦しくて、ため息をついた。胸の苦しさは息と一緒に逃がすことはできず、咽喉の奥に絡まって涙が出そうになる。もう、力強い腕に抱かれて柄にもなく安心している自分に気付かないふりはできなかった。
自分はまもなく溶けて無くなるだろうが、人一倍丈夫な宏海だ。火傷を負うのは避けられないが、きっと助かってくれるだろう。
宏海が無事なら、こんな最後も悪くない。
ケサが見ていた実界の映画でふと目を奪われた1シーンが頭を掠めた。力の入らない体を宏海の腕に任せているのはまるでチークのようで、あいすはうっとりと熱さで朦朧としてきた頭を宏海に預けた。こんなことに憧れていたなんて、誰にも知られたくないと思って、相変わらずの自分に少し笑った。
瞳まで溶けてきたのか、あいすの霞む視界にゴンブトゼクターが天使のように空を舞うのがうつったのは、その時だった。


<了>



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